泣ける修羅場 [家族修羅場]
両親が事故で亡くなった。
もう9歳だったのに、ぼんやりとしか覚えていません。
泣いていた記憶はあります。
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あずけられた先で黙殺されたこと。
話しかけてもらえない。
笑ってももらえませんでした。
優しく構ってもらえるのが普通だと思っていたので、どうしたらいいか分かりませんでした。
こっちはよく覚えています。
これがわたしの最大の修羅場です。
そんな中、私の件で周囲でこんなやり取りがありました。
私をどうするか?という話し合い。
親戚は「いらない」「困る」「迷惑」と引き取る事を頑なに拒否をする。
「なら叔父にまかせたら?」 と言い始めた。
ただ叔父は、当時24歳会社員独身。
家によくやって来ては私とも遊んでくれていました。
「無理に決まってます」と様子見に来た叔父。
でも私は「おにーちゃん(そう呼んでた)」と叔父にすがりつき助けを求めた。
そしたら…
叔父「わたしが育てます」
親戚一同ざわつき出す。
叔父「おまえら人に押し付けて梯子外すのはやめろ!」
親戚「なら任すか」「でも男手だけじゃ」(無限ループで揉める)
叔父には当時21歳になる彼女がいた。
他県の大学で4年生でした。
彼女にも事情を話すと
「事情は聞かせてもらった。内定蹴ってそっち行って結婚するわ。これで解決でしょ」 と。
だが、叔父はその意見には賛成しなかった。
「22歳でいきなり10歳の子持ちとか正気じゃない。絶対だめ、無理。むしろ別れてくれ」
と別れまで切り出した。
しかし叔父の彼女は「誰かがやらなきゃ」と私を必死で守ってくれた。
見ず知らずの子供なのに・・・。
もちろん彼女の両親は賛成するはずもなかった。
叔父や彼女両親は「わざわざ不幸になるな。そもそも私子知らんだろ。諦めてくれ」と攻めていたけど、
叔父の彼女は「不幸になるって決めつけるな! あなたの娘なら関係ある!・・・ねえ、3人で幸せめざそう。ね(女の涙作戦)」と。
叔父「もう、そこまでいうならついてこいや。3人で行くとこまで行っちゃるわ」
彼女両親「おまえなんかもう娘じゃない。困っても、す、少ししか助けないんだからね!」
このあとも、両親との修羅場はずっと続いたようです。
それから、私の両親は叔父とその彼女になりました。
それからというもの、親が若すぎて好奇の視線や心無い中傷に苦しみます。
「育児完全素人」でなにをやっていいかさえ分かりません。
不安定な私に張りつくため、母は専業主婦でずっと寄り添ってくれました(在宅パートも少し)。
当時の父の給料では火の車状態。
そんな両親は私を育てるのに必死で結納も新婚旅行もなしでした。
式だけは父の会社の人や友人がパーティを開いてくれて人前式だったそうです。
父が苦い顔で振り返ることがあります。
「正直に言うと、皆の心遣いより貰った祝儀の額が嬉しかった。貧乏すぎるとそういう間違いをおこす。
今でも恥ずかしくてしょうがない。二度とあんなさみしい気持ちになりたくない」
わたしに残された遺産は(たいした金額ではありません)手つかずのままでした。
「それに手を付けるようでは、どっちみち長くはもたなかった」だそうです。
母も育児や家事で実家を毎日質問攻めにしていても、金銭の援助はなかなか受け取らずに祖父母を困らせました。
「意地だったわ。若かったなあ(遠い目)」だそうです。
わたしが中学にあがり家事をするようになると、母はフルタイムで働くようになりました。
父もそのころ昇進し家計は改善されたと思います。
高校も行かせてもらえることになり、私立の進学校と公立を併願しました。
私立を受けたのは「諸費用全部タダ」の「特待」を狙っていたから。
その高校のOBで1年と3年で「特待」2年は「準特」だった優等生の父は、すぐにわたしの意図を察しました。
「私子には勧めたくないな。成績順だけの生活は思う以上に苦しいぞ。将来のためじゃない勉強のための勉強だ。 好きじゃなくても金のために勉強、プロみたいに・・・」
「勉強のプロ?なにそれかっこいい」
「ちょっと、嫁子きてくれ」
「あなたが兄さん(私子の実父)に迷惑かけたくないって特待狙ったのと同じじゃない。私子の気持ち分かるでしょ」
「分かるしありがたいからそこまでさせたくないだろう」
そんな事ももありましたが、結局 「特待」も「準特」もだめでした。
でも、その下の「奨学生」(授業料7割引き)に引っかかることができました。
ある高校2年の時、 我が家に妹が誕生しました。
ひそかに気にしていたので大喜びでした。
「赤ちゃんかわいいー」と無邪気にはしゃいでた。
そんな中、親戚は「やっと本当の子か」「私子、お役御免だな」「妹に悪さするんじゃないか」 と嫌みを言ってきたりしました。
初めて私は父が人に殴りかかるのを見ました。
コレを期に、それまでも疎遠だった親戚と完全に絶縁することになりました。
この出来事で私は心因性ナントカで倒れて入院。
父は繰り返し「お父さんが甘かった。私子、すまなかった」といってました。
父は毎日産院と私の入院先を往復して、親戚と喧嘩もしていて、疲れたところを祖父に捕まって
「なぜ相談にこない? あれ(母)もきみも一人で抱え込むのはどうなんだ」と怒られていました。
父の泣いているところも初めて目にしました。
一人で抱え込むと父でも怒られるのかと安心しました。
妹と私子の関係は全然大丈夫でした。
むしろ可愛すぎました。
どっちが大事とか関係ないから。
もう修羅場はないと信じたいです。
私の両親は本当に自慢です。
ここまで育ててくれてありがとう。
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泣いていた記憶はあります。
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話しかけてもらえない。
笑ってももらえませんでした。
優しく構ってもらえるのが普通だと思っていたので、どうしたらいいか分かりませんでした。
こっちはよく覚えています。
これがわたしの最大の修羅場です。
そんな中、私の件で周囲でこんなやり取りがありました。
私をどうするか?という話し合い。
親戚は「いらない」「困る」「迷惑」と引き取る事を頑なに拒否をする。
「なら叔父にまかせたら?」 と言い始めた。
ただ叔父は、当時24歳会社員独身。
家によくやって来ては私とも遊んでくれていました。
「無理に決まってます」と様子見に来た叔父。
でも私は「おにーちゃん(そう呼んでた)」と叔父にすがりつき助けを求めた。
そしたら…
叔父「わたしが育てます」
親戚一同ざわつき出す。
叔父「おまえら人に押し付けて梯子外すのはやめろ!」
親戚「なら任すか」「でも男手だけじゃ」(無限ループで揉める)
叔父には当時21歳になる彼女がいた。
他県の大学で4年生でした。
彼女にも事情を話すと
「事情は聞かせてもらった。内定蹴ってそっち行って結婚するわ。これで解決でしょ」 と。
だが、叔父はその意見には賛成しなかった。
「22歳でいきなり10歳の子持ちとか正気じゃない。絶対だめ、無理。むしろ別れてくれ」
と別れまで切り出した。
しかし叔父の彼女は「誰かがやらなきゃ」と私を必死で守ってくれた。
見ず知らずの子供なのに・・・。
もちろん彼女の両親は賛成するはずもなかった。
叔父や彼女両親は「わざわざ不幸になるな。そもそも私子知らんだろ。諦めてくれ」と攻めていたけど、
叔父の彼女は「不幸になるって決めつけるな! あなたの娘なら関係ある!・・・ねえ、3人で幸せめざそう。ね(女の涙作戦)」と。
叔父「もう、そこまでいうならついてこいや。3人で行くとこまで行っちゃるわ」
彼女両親「おまえなんかもう娘じゃない。困っても、す、少ししか助けないんだからね!」
このあとも、両親との修羅場はずっと続いたようです。
それから、私の両親は叔父とその彼女になりました。
それからというもの、親が若すぎて好奇の視線や心無い中傷に苦しみます。
「育児完全素人」でなにをやっていいかさえ分かりません。
不安定な私に張りつくため、母は専業主婦でずっと寄り添ってくれました(在宅パートも少し)。
当時の父の給料では火の車状態。
そんな両親は私を育てるのに必死で結納も新婚旅行もなしでした。
式だけは父の会社の人や友人がパーティを開いてくれて人前式だったそうです。
父が苦い顔で振り返ることがあります。
「正直に言うと、皆の心遣いより貰った祝儀の額が嬉しかった。貧乏すぎるとそういう間違いをおこす。
今でも恥ずかしくてしょうがない。二度とあんなさみしい気持ちになりたくない」
わたしに残された遺産は(たいした金額ではありません)手つかずのままでした。
「それに手を付けるようでは、どっちみち長くはもたなかった」だそうです。
母も育児や家事で実家を毎日質問攻めにしていても、金銭の援助はなかなか受け取らずに祖父母を困らせました。
「意地だったわ。若かったなあ(遠い目)」だそうです。
わたしが中学にあがり家事をするようになると、母はフルタイムで働くようになりました。
父もそのころ昇進し家計は改善されたと思います。
高校も行かせてもらえることになり、私立の進学校と公立を併願しました。
私立を受けたのは「諸費用全部タダ」の「特待」を狙っていたから。
その高校のOBで1年と3年で「特待」2年は「準特」だった優等生の父は、すぐにわたしの意図を察しました。
「私子には勧めたくないな。成績順だけの生活は思う以上に苦しいぞ。将来のためじゃない勉強のための勉強だ。 好きじゃなくても金のために勉強、プロみたいに・・・」
「勉強のプロ?なにそれかっこいい」
「ちょっと、嫁子きてくれ」
「あなたが兄さん(私子の実父)に迷惑かけたくないって特待狙ったのと同じじゃない。私子の気持ち分かるでしょ」
「分かるしありがたいからそこまでさせたくないだろう」
そんな事ももありましたが、結局 「特待」も「準特」もだめでした。
でも、その下の「奨学生」(授業料7割引き)に引っかかることができました。
ある高校2年の時、 我が家に妹が誕生しました。
ひそかに気にしていたので大喜びでした。
「赤ちゃんかわいいー」と無邪気にはしゃいでた。
そんな中、親戚は「やっと本当の子か」「私子、お役御免だな」「妹に悪さするんじゃないか」 と嫌みを言ってきたりしました。
初めて私は父が人に殴りかかるのを見ました。
コレを期に、それまでも疎遠だった親戚と完全に絶縁することになりました。
この出来事で私は心因性ナントカで倒れて入院。
父は繰り返し「お父さんが甘かった。私子、すまなかった」といってました。
父は毎日産院と私の入院先を往復して、親戚と喧嘩もしていて、疲れたところを祖父に捕まって
「なぜ相談にこない? あれ(母)もきみも一人で抱え込むのはどうなんだ」と怒られていました。
父の泣いているところも初めて目にしました。
一人で抱え込むと父でも怒られるのかと安心しました。
妹と私子の関係は全然大丈夫でした。
むしろ可愛すぎました。
どっちが大事とか関係ないから。
もう修羅場はないと信じたいです。
私の両親は本当に自慢です。
ここまで育ててくれてありがとう。
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2013-11-28 17:18
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